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2026/07/01

AI生成文との遭遇

あるお仕事の一環で、AI生成文を大量に読み、内容を確認する、という作業をしばらくやっておりました。
一見なんてことない文章の顔をしてますが、コレはいったいどこから出てきた事柄なんだ…とか、なんか論理が飛躍してない?とか、表記や文末が不統一だったりとか(こっちは生成時の指示の問題なんですかね)なんとかで、大量の文章のうち、そのまま使える、と思えたものはわずかだった、という印象です。文章を生成させるより、必要な数だけテーマとかキーワードとかを吐き出してもらって、それに基づいてこっちで調べて文章を作ったほうがスムーズだったのではなかろうか…と思ったことも一度ではない。いやまだ自分はチャッピーとかのお世話になったことがないので、どっちのほうが手間を省けるのか、とかを判断する材料も持ち合わせていないのですが。

そしてふと思ったのだけど、自分が作っているサイトの内容も、AIに拾われているのだろうか。この広大なWEBの中で全世界に公開している状態だったら、当然対象にはされる、よね…?
事実と異なることを掲載しているつもりは当然ないのですが、学術的な硬さ、というものはなるべく除くようにしている(たとえば、百人一首の現代語訳にしてもかなりの意訳を用いている)ので、その状態で、誰かの検索に対する回答の材料に使われるとしたら、ちょっとどうだろう、という気持ちになる。ほかにしっかりしたサイトの内容も典拠として用いられるのでしょうけれど。というか、そういうサイトのほうが、そもそもアクセスも多くて典拠元として拾われる優先度も断然高いのでしょうけれど。
でも一方で、前述したような、サイト作成におけるこちら側の方針とか心持ちとかをAIが汲むことはないのではないかと思うと、こんな零細なサイトだから問題なかろう、と楽観視するのも違う気がする。

うーん、どうしたもんでしょうねえ。

2025/12/24

2025年のしめくくり

前回の更新から半年以上経ってしまった💦
何にもしてないわけじゃないんですよ。ずーーーーーっと何かしてるんですが、進行中だと公にできないことも多くてですね(言い訳)
ということで、久々ではありますが、時期も時期だし、1年を振り返ってみます。

R6年版中学教材の改訂作業がようやく先月終わり、昨年の11月に終わっていたR5年版小学教材の改訂作業と併せて、また今回の繁忙期サイクルを乗り越えた、というのがいちばん大きなことかなと思います。数か月前に、小学教材について版元の編集者さんに伺う機会があったのですが、特にミスとか問い合わせとかもないとのことで、ほっとした次第。中学のほうもやらかしていないことを祈るばかりです…。
そしてこのタイミングで、編プロ時代を通じて長らくお世話になっていた編集者の方がお二人、相次いで退職されて、そうか…と。ご年齢のことを考えると、そういう時期なのだろうなと思いつつ、本当に随分とお世話になっていたので、やはり寂しいものです。
幸運なことに、どちらの方にも最後に直接お目にかかってご挨拶ができたので、それは大変ありがたいことでした。これからのお二方のご多幸をお祈り申し上げます。

中学教材の改訂以外のお仕事もいろいろとご依頼いただいていたのですが、こちらはまた時期が来たら改めてお知らせいたします。たぶん年明けには。

それにしても、紙媒体ではない教材のお話もじわじわと増えてきたなあという印象があります。問題作成のやり方とかは、デジタル教材でも紙媒体でもさほど変わらないんだけど、ほかのところでちょこちょこと追加される作業なんかもあったり。でも作業自体は微妙にアナログ感があったり。詳細に述べていいものかわからないので、ぼやっとした書き方になってしまうのですが、今回自分がやったようなちまちまとした作業は、先々には自動化できるものかもしれません。(というか学生のバイトさんでもできる作業じゃね?と思ったとか思わなかったとか)

話は変わりますが、古典教材のお仕事をするうえで、すごくありがたいなと思った書籍がある。
コレです。
『高校生のための古典ライブラリー 漢文名文選』(筑摩書房)

教科書にもよく掲載されるような有名な故事成語(ex:五十歩百歩・大器晩成)の原典や史伝(ex:太公望・登竜門)がたくさん掲載されている書籍で、漢文を扱うときにものすんごくありがたい代物です。各文章の重要語句や句法も併記されているし、書き下し文・現代語訳も別冊にまとめられているし、一般的な句法だとか中国の文化史だとか年表だとか資料も充実しているし、回し者だと思われてもいいくらいおすすめできる。数年前に「故事成語編」のほうを購入して漢文教材の原稿執筆やら校正やらのときに活用していたのですが、「史伝編」も発刊されていたことに今年気づいて、即購入しました(発刊自体は去年だった)。古文に比べて漢文関連の書籍でわかりやすくまとまったものってあるようでない気がするので、何度でも言うけどありがたい!このシリーズでさらに新刊が出るとしたら「思想編」あたりになりそうですが、そちらももちろんお待ちしてますが、既刊2冊の第2弾なんかも出していただけるとうれしいなあ…と思っております。筑摩書房様何卒。

ほかに今年の雑感を列挙。
・「古典作品登場人物名鑑」ちょっとずつ更新してます。ちょっと思うところあって、少しリニューアルを考えております。たぶん来年着手できるかな?
・毎年帳簿付けをためてしまい、年末近くにいざ取りかかって不具合を起こす問題を反省し、月イチで記帳デーを設定することにしました。ここで前月分の記帳をするということにしたら、非常にうまくいった。来年以降もこのやり方を継続する所存です。
・『紫式部日記』を原文で読もうチャレンジをしたのですが、読んでいくうちに訳してみたいなあという気持ちになりました。今ちょっとずつ進めているところです。
・5月に短歌アプリ「57577」のことを書いたのですが、あれからしばらく続けてみて、だんだんちょっと…という気持ちになり…なんか特定の何人かの方たちで回っているように思えて…こちらは夏頃にやめてしまいました。

だらだらと書き連ねてしまったけど、そんなところでしょうか…。
今年もお仕事のお声がけをくださった版元様、編プロ様、ありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。
来年もご依頼に応えられるように努めてまいります。
古典作品登場人物名鑑」を利用してくださった皆様、このブログに来ていただいた皆様もありがとうございました!
どうぞよいお年をお迎えくださいませ。

2025/05/01

57577

ごく最近「57577」というアプリがあることを知りました。
短歌の投稿に特化したSNSです。

その昔、Twitterを始めたばかりの頃に短歌をひとつふたつ詠んでみたことはあるものの、ほかの雑多なツイートとごっちゃになるのにどうにも違和感を覚えて早々にやめてしまった。しかし、これは前述の通り短歌に特化したアプリである。ということで、DLしてみました。

毎日提示されるお題に沿って詠むもよし、お題に関係なく心の赴くままに詠むもよし、出来不出来はまあアレですが、いろいろと歌をひねり出すのは楽しい。それより何よりいいなと思うのは、タイムラインが穏やかで静かなこと。これは恐らく歌の形をとるまでに、吟味され咀嚼された言葉が並ぶためではなかろうか、と思うのです。感情をのせて瞬発的に吐き出された言葉ではなく。なので眺めていても心が荒れたり波立ったりすることがない。
よいものを知ることができたなあと思っています。

2025/04/06

「やうやう白く」の「白く」とは

近畿地方の朝の番組に「おはよう朝日です」(ABCテレビ)というのがあり、まあ天気予報と占いと時計代わりくらいな感じでつけているのですが、この番組でたまーに天気にまつわる視聴者からの疑問に答えるコーナーみたいなのをやっている。で、先日(2025/3/21)「春はなぜ霞むのか?」というテーマを取り上げていた。
前述のとおり、私はこの番組を基本的にはぼやーっと聞いているので、この時もやっぱりぼやーっと聞いていたのですが、途中で急に注意を向けさせられた。
というのも、解説の中で、「春霞の情景を描いた古文の一節」ということで、『枕草子』の第一段を取り上げたからです。そう、「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは…」の箇所です。この「やうやう白くなりゆく」が、「春霞によって白っぽくなった空の状態」だという。
ん??????となったわけです。ここは、夜の暗がりから「やうやう」=次第に、「白く」=白んで(明るくなって)ゆく「あけぼの」の空のありさまを描いたものではないのか…? それ以外の解釈が提出されることなど微塵も思っていなかったくらいのある意味「常識」では…?
手元にある限りの解説書とか辞書とかもろもろ調べましたが、「やうやう白く」の「白く」を春霞によるものと記したものは見つかりません。もともと「しろく」には「著く(しろく)」と解釈する説もあったらしく、「新編日本古典文学全集(小学館)」の『枕草子』には、「『白く』と『著く』を重ねるか。」という注がついています。「著し」は「はっきりしている」という意味だそうなので、「やうやう著く」であれば、「次第にはっきりして」となるから、どちらにしても、夜の闇の世界から、日の出とともに周囲の物の輪郭があからさまとなっていくありさまを描いたことになるのでは。

うーん…。頭から真面目に聞いていたら、「やうやう白く」=「春霞」だという根拠を知ることができたのかもしれませんが、私が注意を向けて以降は、少なくともそういう内容はなかった、と思う。どういう流れでそういう解釈が出てきたのだろう。『枕草子』第一段は、中学教科書におけるド定番の文章でもあり、根拠のはっきりしないような内容をあんまりテレビで言わないでほしいな…と思ってもやもやした次第です。



2023/05/09

「御格子あげる」のは重労働かもしれない

『枕草子』第280段「雪のいと高う降りたるを」。雪の降った日のこと、中宮定子から「香炉峰の雪いかならん」と問われた清少納言が白居易の漢詩に基づいて御簾をあげてみせて、定子はじめ周りの人々にたいそうほめられた、という有名なエピソードですが、この中に、もともと下ろしてあった御格子を上げさせる、という描写があります。「御格子」は「蔀」ともいい、格子に板を張った戸のこと。上辺で吊り下げてあって、開くときには上の方にぱかんと上げるそうです。
古典作品を読んでいるとちょいちょい出てくる御格子(蔀)ですが、これの実物を見ると、けっこう大きいし重量感がある。初めて見たのは京都御所でのことで、「これが!あの!蔀!」と勝手にテンションが上がったのだけど、そのうえで、「雪のいと高う降りたるを」を読み直してみると、何気なく「御格子あげさせて」って書いてあるけど、そんなスッと上がるものなのかしら、ということが気になってきました。で、先日六波羅蜜寺に行ったときに、本堂にちょうど蔀があって、かつ上げてあったので、近くにいらっしゃった僧侶の方に蔀は毎日開け閉めするのか、重いものなのか、などとお訊きしてみたのです。
で、教えていただいたことには、六波羅蜜寺では、毎日蔀を開け閉めしているわけではない。ただ、開けるときにはだいたい3人がかりで上げる、とのお話。棒を使って持ち上げるのだけど、バランスよく持ち上げないといけないのでけっこう難しいということもおっしゃっていたはず(ちょっとうろ覚え💦)。
ということで、清少納言の「御格子あげさせて」の裏には、上げるお役目をした人の骨折りも隠れている…かもしれない。いや、当時の人たちはお役目として黙々と務めていたかもしれませんが。

そういえば、『宇治拾遺物語』95話の「検非違使忠明のこと」では、忠明が蔀を両脇に抱えて翼のようにして谷底へ飛び降りる、なんてのもありました。蔀の重量感を目の当たりにし、実際に取り扱っている方のお話を聞いた状態で忠明の行動を考えると、この説話の荒唐無稽さというか、一大スペクタクル感が増してくるように思います。

※『枕草子』『宇治拾遺物語』の内容については、ともに、「日本古典文学全集」(小学館)を参考にしました。

2023/02/12

「自分語りしていいですか」

少し前に、ある所で20代前半?くらいのお嬢さん(初対面)と話をする機会があったのですが、話の最中に彼女が発したのが、タイトルの言葉です。
「自分」を「語る」という大仰な雰囲気の前置きに、ちょっと身構えてしまったのだけど、
彼女の口から出てきたのはわりとなんでもない彼女側の事情だった。
ただ、そういう場合にこういう前置きがつく、という事態に初めて遭遇したので、こちらとしては当惑したのと、そもそも「自分語り」という言葉自体、初めてお目に…というかお耳にかかったので、これはいったいどういう言葉なんだろう、と妙に引っかかってしまったのです。

思うにわざわざ「自分語りしていいですか」と断りの文句を入れてから、自分側の事情を話す、というのは、自分のことを話す行為自体に何がしかの遠慮を感じているからだ、と考えることができると思われる。じゃあその遠慮はどういう心情からやってくるのだろう。
 推測1:相手(この場合は私)が話をしているのに、自分の話をして申し訳ない。
 推測2:相手にかまわず自分のことばかりべらべらしゃべるという行為に引け目がある。

推測1の場合、だからといって、彼女が私の話をそう熱心に聞いていたかというと、正直そういう感じでもなかった(という印象を受けた)ので、なんか違う気がする。
推測2の場合、別にそんな「自分語り」とか言い出す前から、ご自分のことをしゃべってたので、中途半端なタイミングで改まって前置きする意図がちょっとよくわからないし、なんならその前に私がしゃべってたことも「こいつ自分語りばっかりしよって…」と思われてたのか?と思うとちょっとモヤっと…(被害妄想)。


結局「ちょっとよくわからない」という結論しか出てこないので、よくわからないままなんですが。
これは世代的なものの言い方(と意識)なのか、私がしゃべった彼女の個人的な用語用法なのか。謎です。いろいろと。
まあ彼女と再び会うことは恐らく二度となかろうと思われるので、別に忘れてもいいようなことなのだけど、ただただ不思議な言葉だったなあと思います。

2022/10/16

インパクトが強すぎる

円仁の項に載せている『宇治拾遺物語』の「慈覚大師、纐纈城に入り給ふ事」は、学生時代、卒論を中世説話文学で書こうとしたときに、テーマに関連する説話のひとつとして取り上げた、思い出深い話です。卒論のテーマは、「説話を通して当時の対外意識を読み取る」だかなんだかそういう内容で(曖昧が過ぎる😓)、当時の人々にとっては海外というものは遠い存在だっただろうから、必要以上に恐ろしいものに見えていたのではないか、というような結論に持っていったように記憶しています。でもそういう趣旨を離れても、「纐纈城」ってめちゃめちゃ怖い話じゃないですか…。だって人が縛りあげられて、血をしぼられて、その血が染め物の染料にされるって………!!!!しかも、血をしぼる前準備として、食べ物にしゃべれなくなる薬を入れるとか、太らせる薬を入れるとか、しっかりしたホラー…。こんな話、どういう経緯でできあがったんだろう。なんにもないところから湧いて出たにしても、発想力…!って思うし、もしも、着想を得るような実際の出来事があったとしたら、それもそれで怖い…と思います。最終的にこのお話は、円仁の尊さを語って締めくくられているのだけど、中身のエピソードのインパクトが強すぎて、『宇治拾遺』の数ある説話の中でも、個人的に、脳裏に深く刻み込まれているお話です。

AI生成文との遭遇

あるお仕事の一環で、AI生成文を大量に読み、内容を確認する、という作業をしばらくやっておりました。 一見なんてことない文章の顔をしてますが、コレはいったいどこから出てきた事柄なんだ…とか、なんか論理が飛躍してない?とか、表記や文末が不統一だったりとか(こっちは生成時の指示の問題な...